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後見人であることがその時点で、確定するわけです自分の親の遺産が相続人である子どもの判断ではなく、他人の判断で処理されていくなんて親の家を片づけるためには、考えたくもありませんよね。後見人に対する知識も身につけておきたいところです。空き家になった親の家の仏壇の処理に迷ったら「遺品整理をしようと思うんだけれど、仏壇はどうしたらいいのでしょうか?」私は深く考えずに答えました。
そう質問されたので、ご自宅までお運びしましょうかところが、仏壇をどうすればいいのかという問いには、単なる物の移動とは違った意味合いがあったのです「いえ、うちには置き場がないので……」どうも自分は引き取りたくないので、私どもに処理を任せたいという趣でした。
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同じような考えで、結局、仏壇の行き場が決まらないうちは遺品整理ができないという結論に至り、引き取り先が決まり次第ご連絡をいただくことになりました。最近はこのように仏壇を引き取りたくないという遺族が増加しています。

未成約区画

なぜ、仏壇を引き取れないのでしょうか昔の家には仏壇を置くためだけの部屋があったり一番の要因は、設置スペースの問題です、床の間の横に仏壇を設置できるよう設計段階からスペースを確保していました。しかし、最近は仏間どころか仏壇を置くスペースすらなく、冷蔵庫のような大きな仏壇ともなれば、邪魔な存在でしかなくなりました。引き取れない……とはいうものの、もっとも、そこにはある種のためらいが見て取れるのも事実です。
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たしかに、親が亡くなったり、住まなくなった家を片づけてしまうと、その地に訪問する機会はほとんどなくなり、墓参りに行けなくなってしまっているケースが多いのです。
だれもお墓参りに来なくなり、放置され無縁仏になってしまっているお墓が全国的に大量にあり、寺院や墓地の経営者にとって悩みの種となって、無縁墓問題として新聞などにも取り上げられていますお墓は買ったものそのお墓ですが、という感覚でいる方も多いと思います。しかし、基本的にお墓は個人が所有することはできません。
したがって、お墓は不動産のように売却することはできないのです「永代賃借権という契約になっている場合が一般的です。寺院や霊園などとは永代使用権」先祖代々のお墓が古いお寺にある場合は契約の形にはなっていませんが、管理料が卒塔婆供養のためのお布施などに代わるだけで、基本的な構図は同じです。

減価償却費

そうした管理料やお布施を払続けていれば半永久的にお墓は使用できるわけですが、滞納が続けば無縁仏になるのが大方の流れです。放置されて荒れ果てたままのお墓が増加しているのはそのためです。お墓の売却はできず、お墓を維持するためには管理料を払い続けなければならないとすれば、思いつくのはお墓を移すことですね。それを改葬といったりしますが、これもなかなかやっかいなのです。
お墓を移す場合、元々のお墓があるお寺に対しては、お墓を返却するということになるのですが、抜魂供養といった名目の費用を請求されることもあります。また移転先である寺院や霊園に新たに納骨しようとすると、開眼式などと称して費用がかかることもあります。
手間も費用もかかる、というわけです改葬先は自宅近くの墓や納骨堂にする人が多いのですが、散骨といって、近年は海や山などに粉末状にした遺骨を撒くという納骨手段を希望する人も増加傾向にあります。
いずれにしても、現在まで使い続けていたお墓を閉めて改葬する場合は、市役所や区役所に行き申請を改葬許可書を発行してもらう必要があります。して現在、法律で明確に決められているのは、火葬場への持ち込み段階までです。

全国ニュータウン会議正式な死亡断書を役所に提出することで、埋火葬許可証それを火葬場に示さなければ絶対にを受領し、火葬は受け付けてもらえません。基本的には、埋火葬許可証に、火葬を執行したことをその火葬場に持参した火葬場は

それが埋葬許可証になり、納骨の際に、証明するといった裏書をしてくれます。墓地や寺院に提出する、というのが1連の流れです。
骨揚げただし、をして容器に移すわけですが、火葬後は遺骨を拾うその後の処理については決まりがありませんつまり国で定められた定義があるわけではなく、法律上で決められた納骨の方法というのはないのです。
遺骨の処理はそれぞれの判断でできるというわけです。もちろん、どこにでも埋めたり撒いたりしていいわけではありません。ある程度の限られた場所でないと罰せられることもあります納骨やお墓に対する考え方はさまざまですが、最近、都市部で目立つのは、納骨堂を希望する方が増加していることです。公営のお墓の空きが少なくなって抽選が当たらないという現状と民間の墓地が高価になったことも背景にあります。
お寺の境内などにある冷暖房完備のビルのような建物ですので、交通の便がよく雨の日でも墓参りができて、草むしりや掃除の手間もかからないというメリットがあり、最近は人気になっています。

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否認する根拠

地元の知人の紹介で田畑も含めた1000坪の土地と生家の売却が実現(仮名)岡山県·66歳岸本靖夫さん「平屋の古民家だったから買うことにした」お隣の紹介で空き家になった築100年の家を売却「売れるとしても二束三文だと覚悟していましたから、300万円というのは十分な額だと思いました。そりゃあ高く売れるに越したことはないですけど、まあ自分に住む意思はないし、使ってくれる人がいるならそれがいいのかなと」岸本さんの実家の売却が決まったのは、2010年のこと。岸本さんは当時をこう振り返る。実家の隣の造園業の社長だった。その前年に売却話を持ちかけてきたのは、隣といっても数百mは離れているが、岸本さんと造園業の社長は、以前からよく知った仲だ。
「田舎暮らしを望んでいる人がいるんだが、あんたとこの実家を売ったらどうか」電話をかと、けてきてくれたのだ。希望している方はこの地域の出身で、東京に出て商社に勤め、長く海外勤務をしていたそうでその方のご次男が病気療養中で、す。
彼の希望もあって田舎暮らしをしたいということでしたが、岡山県中部、春と秋には雲海が見られることで有名な地域に建つ岸本さんこちら岡山市内に住む岸本さんが、高校時代までを過ごした家であり、の実家だ。
現在、周りには急峻な斜面を利用した棚田が広がっていて、晴れた日には瀬戸内海まで見渡せるという。国道から山道を車で上ること8分の距離だが、それは道が舗装されてからのこと。かつてはでこぼこ道で、雨が降ると大変だったそうだ。戦後間もない1947年に生まれた岸本さんはそんな道を4㎞離れた小学校まで通った。中学生になると学校までは片道3時間の距離。毎日、徒歩で往復したという。
岸本さんの実家は、祖父が独立するときに本家の援助をもらって建てたもの。
分家筋だった祖父は、本家から200m離れた場所に、100坪ほどの敷地に40坪ほどの家を建てた。
イオンモールつくばsc1910年代のことである土間、納屋、家畜小屋4Kの平屋という田舎の古民家いまふうにいえば、母屋は4Kの平屋で、それに離れがあるというもの。岸本さんの実家は、母屋の玄関を入るとすぐに土間があり、左手が居住スペース、右手が納屋や家畜小屋などの作業スペースである。居住スペースは、6畳二間に、8畳と4畳が各一間06畳のひとつは食事スペース、もうひとつにはタンスなどが置かれていた。8畳がいわばリビングルームで、4畳との間にある仕切りの障子をはずせば12畳の広間となる。
母屋のほかに6畳と8畳の離れもあり、岸本さんたちが訪れると離れで眠るのが常だった。この実家で結婚式を挙げた。岸本さん夫妻は、親類縁者たちも岡山市内から駆けつけるなど、列席者はおよそ30人。その宴の最中に、ある出来事が起こる。母屋の8畳間の床が抜けたのである。いまでも親戚が集まると必ず誰かがこの話題にふれ、笑い話になるという。

台所の奥には家畜小屋があった。
岸本さんは、昔を懐かしんで言う。昔は牛に引かせて田んぼを耕していました。
私が小学生ぐらいのころまでは牛がいましたね農耕牛だから乳は出ない。でも、ヤギを飼っていたからヤギの乳を飲んでいた。当時としてはわりと体が大きかった身長177,のはそのせいかな。風呂は最初は外にあって、家の中にできたのは牛を飼わなくなってから。家畜小屋のあとのスペースにつくった。風呂焚きがいもちろん、つもの自分の仕事でしたね。薪割りもやりました庭には柿とイチジク、鶏も庭で飼っていた。
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少し山を歩けば山菜も採り放題だった。山から切り出したコナラの木に菌種を打ち込み、シイタケの原木栽培も行っていた。

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岸本さんは、再び懐かしそうに当時を振り返る。「当時は山にも人の手がたくさん入っていたから、マツタケもよく採れた。一回山に入っただけで、持ちきれないほど採れたものです」つい最近まで水道はなく、井戸の水を引いていた。実家から200m離れた山の中には炭焼き小屋もあった。「どの家でもそうですが、炭焼きもやっていた。
昔はほとんど自給自足でやっていけるぐらい、なんでもそろっていたんです」3か月に1回のペースで帰郷しては空き家の手入れをする手間が次第に負担となる岸本さんが実家の売却を考えるようになったのは、父親が亡くなってからひとり暮らしを続けていた母親が、誰も住む人がいなくなったからだ特別養護老人ホームに入居し、親と離れて暮らす子どもの多くが抱える、今日的問題といえよう。

親が病気で入院したり介護施設に入居してしまったために、定期的に遠路見舞うといった生活を続けている人は少なやがては、必然的に空き家の管理や処分等の問題も降りかかってくる。くない。脳梗塞で倒れた岸本さんの父親は、1990年に75歳でその人生を終えている。以後、岸本さんの母親は、自分で食べるだけの野菜を作り、年金でやりくりする生活を続けていたが、006年に老人ホームに入居。

水に流す岸本さんの実家は、誰も住まない空き家になったのである老人ホームに入居するにあたって、母は家財道具はそのまま残し、必要最低限のものだけをホームに持ち込んだ。このころから、岸本さんの心の中では、「いつかこの家を処分するときがくるのかな」という思いがあったという。岸本さんの母親は、その後、循環器系の病を患うなどして、09年に82年の生涯を閉じた。その間、岸本さんは、3か月に一度のペースで、実家の管理のため現地に足を運んでいた「人が住んでいないとすぐに廃屋になるというので、できるだけ実家に帰って掃除などをするようにしました。
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いずれにせよ岸本さんの実家は、希望していた条件にびたリとはまった

岸本さん、造園業の社長、購入者という地元つながりで、空き家を売却できたという典型的なケース。それも不動産業者の仲介案件ではなく、売主と買主の直接取引だった。購入者が出畑をつけてもらって300万円だった。

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そのため相続人に「年金受給権消滅のして、手続きをしていただくために、といった通知が届きます。
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競争入札

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地方の活性化子どもが成年後見人になることで、預貯金の引き出しや不動産の売却も可能になります。親が認知症になるとは考えたくないことですが、万一に備えておくことも必要なようです。

娘と同居することで空き家になる家を、

近所に住む親戚に格安で譲る。売れたのは家と敷地、残る山林は手つかずのまま。売ったとしても価格は限りなくゼロに近い。横浜市·92歳小林民さん(仮名)300万円にしましょう。

家の手入れはしてあります処分を優先し評価額790万円の家と土地を安価で売却「手入れをしてきたので、すぐにでも住めばすが、300万円にしましょう。それでいいです。その代わりといっては何ですが、多少、処分はおまかせします」家具は残したままになります。小林さんは、売却価格にこだわらないと決めていた。街の不動産会社に依頼する前に、隣近所や近くに住む親戚に声をかけてみた。
無料でもいい、そんな気持ちもあったという。幸いなことに、しばらくして小林さんの呼びかけに反応があった。
小林さんの家からさらに奥まった地所に住む親戚が、孫夫婦のために購入したいと申し出てきた。地場には地場の需要があるのだ。やはり、地縁社会でこれからも生きていく親戚にとって、とはいうものの、あまりに安い価格で買い取ったとの噂が広がれば、困惑する場面があることは容易に想像がつく。そんなワケで、なかなか売却価格を言い出す雰囲気にはならなかった。それを察した小林さんが、冒頭のように自ら口を開いたのだ。
固定資産の評価額の半値以下だったためか、それ以後はトントン拍子に話が進み、売買契約が成立した。

その賃貸不動産を相続する人

将来的には空き家になることが予想される実家を、親が生存中にたたむ方法もある。親の住呼び寄せて同居するのもひとつの方法だ。まいの売却を促し、小林さん親子はそれを選択したわけだひとり暮らしには広すぎる一軒家を離れ50年ぶりの母娘の同居が実現ああ、天国!天国!毎晩の風呂上がり。小林さんの口癖である。小林さんは92歳になる現在も、誰の助けも借りず、ひとりで入浴する。
湯上がり後、浴衣に着替えながら、やや照れくさそうに、それでいて部屋中に聞こえるように口にするのが日課だそうだ口癖には、同居を申し出てくれた長女への謝意が含まれているのだろう。親子とはいえ、長女は高校卒業後、進学·就職で実家を離れており、それ以来の同居。およそ50余年ぶりのことひとつ屋根のドでの暮らし、遠慮なくなんでもいえる親子関係に戻るには、いましばである。らく時間がかかる。口癖は当分続くはずだ。
口癖の理由はもうひとつある。小林さんは、自宅の風呂をまるで温泉のように感じているの天国!心底からの言葉でもあるも事実。毎夜毎夜の天国!は、それもそうだろう。
こうです!小林さんは娘と同居するまでは、ひとり暮らしには広すぎる一軒家での入浴やや深めのステンレス製の浴槽がある風呂場は、タイルの壁でおおわれているだけ。アルミサッシの窓を開ければ、すぐ外側は白宅の庭先である。雪が少ないとはいえ、東北地方の寒気がすき間風となって入り込む。古い一軒家。どこからとなく、脱衣所に電気ストーブを用意するなど、どんなに暖を確保しても、厳冬期の風呂の出入りでは、体を思わずブルッと震わせてしまうほど寒気を感じる日があるそうだ。それがマンションでの入浴に代わったのだ。風などまったく感じることはない。
浴槽を出て着替えに多少時間がかかったとしても、寒さなど気にかけることはなくなった。マンションのお風呂が天国というのも、あながちオーバーではないだろう。

娘からの同居の申し出を受けて長年住んだ地方の家の処分を決心1921年生まれの小林さんは、41年に東京で同郷の男性と結婚。
20歳の誕生日のおよそ3か月前のことである敗戦をきっかけに夫が、その後、高校の教師として故郷である福島県に戻ったことで、以来、いわき市に隣接する町に住むことになる。
学校をいくつか異動しながらも勤め上げた夫は、2007年に92年に及ぶ人生を閉じている。退職後も塾の講師や地区の世話役などを務め、90歳直前までは元気に暮らしていたという。