お家を見に行こうよ

今どうするのか

親の家の処分は、結いつかは売却したほうがいいが、さまざまな事情から売却がかなわない場合に論からいえば、は、空き家にしたままにするよりも、貸し出す、あるいは自ら親の家に移住するという選択もあると心得ておきたい。

思い出のつまった家を残したい!

家の使われ方や入居者の評判が気になって精神的にくたびれてしまった。小田島恵子さん(仮名)東京都·56歳親の家を残したいからと貸家にしたが貸した家の状態や入居者の振る舞いが気になって疑心暗鬼にある年のこと、貸した家の庭にあった木が勝手に切られていました。

木が枯れてしまって、見栄えが悪いので切ったとか。でも、その切りかたがあまりに手荒くて。また、別の入居者は庭の芝生を勝手にはがしたんです。もしかすると芝が枯れたとか、何かの事情があったのかもしれませんけど、何の連絡もなしに芝生をはがすのは契約違反だと不動産会社に文句を言いましそのころになると実家のご近所での評判も気になり始め、入居者のせいで、た。
貸し手の私たちの悪い評判が立っているのではないかと、もう疑心暗鬼に近い精神状態ですね。
そうしてだんだんと家を他人に貸すことが精神的に負担になってきました都内に住む小田島さんの話だ。両親が亡くなり誰も住まなくなった実家だが、小田島さんきょうだいは家を売る決心がつかなかった。

まちづくり三法家が無人のままでは無用心だし維持管理も大変ということで、それで、賃貸物件として貸し出したが、貸したら貸したで気苦労のタネになったという。小田島さんは都合15年ほど実家を貸家にしていたが、佐賀県唐津市にあった両親の家、その後3年かけて売却した。売ったのは2007年、売価は1400万円ほどだった。小田島さんの父親が亡くなったのは1989年の正月、元号が昭和から平成に変わる3日前だった。母親はその4か月前に他界している地元では名士。
小田島さんの父親は事業家で、そのため相続財産も多く預貯金だけで2億円近くあり、自宅のほかにも不動産を大小3つ所有していた。「父は地元の名士であったため、葬儀には大勢の人が集まりました。父が名士であった影響はそれだけでなく、父の死はすぐに町中に知れ渡り銀行の預金などの財産がすべて動かせなくなってしまいました。
父の代からお世話になっていた税理士さんによると、私たちが納めなくてはならない相続税の額は、それぞれ何百万円ということでした。
当時、それだけのお金を自分たちの蓄えから支払うのは、みんなかなりの負担だったので、急いで遺産分割協議書を作ることにしました」小田島さんのきょうだいは、兄と姉、それに小田島さんの3人。

地代指数

いずれも実家を離れ、長兄と小田島さんは都内に、姉は名古屋に、それぞれ居を構えていた。そのため3人が一堂に会し話をする機会は、葬儀の直後ぐらいしかなかった。遺産分割協議はすんなりまとまった。幸い遺産分割でもめることはなく、預貯金や生命保険金は3等分、所有不動産のうち一番評価額の大きい土地を姉が、残る2つを長兄と小田島さんがひとつずつ、実家は小田島さんと長兄の共同所有とした。
まだ売りたくないが空き家のままではまずい家をこのままにして貸そう「当時、私はまだ独身だったので、いつか故郷に帰るかもしれないという思いがありました。兄姉はすでに嫁いでいましたが、も同じ気持ちでした。やはり生まれ育った家は残しておきたいと考えたようです」故郷の家には思い出がありすぎて、すぐには売却する気持ちになれないものだと小田島さんは言う。

不動産を売却して納税遺産分割協議書の作成と預貯金の移動、そこまで一段落させて小田島さんたちきょうだいはそれぞれ自分たちの暮らしに戻っていった。

両親が生前のころのままにしていた。この段階では、家具類など一切合切、空き家となる実父が事業をやっていたころに従業員だった人が、家の管理は、近所に住む、ときどき風を通しに来てくれるというので謝礼を払ってお願いすることにした。そこで兄がこのまま空き家初盆を迎え、私たちきょうだい3人は、また実家に集まりました。何かあったらご近所に迷惑をかけると言い出しました。

じゃあ、にしたままだと、どうしよう3人とも売却という決心にはまだ至りません。私もいつか,となりましたが、帰ってくるかもしれないという思いがありましたから、誰言うとなく貸し出そうということに話が落ち着きました300㎡の敷地に、120mほどの築20年の鉄筋2階建ての家屋、これが小田島さんの実家いわゆる地方の閑静な住宅地にあった。だ。

唐津駅から徒歩で15分程度の距離で、まったくわかりませんでしたので、「いくらで貸せるものなのか、不動産会社には相場で貸せれ兄も私も固定資産税分が出ればいいくらいばいいが、多少安くてもかまわないと言いました。に思っていましたから」都内に住む小田島さんにとっては驚くほど安い金額だったが家賃は月額8万円となった。これが地方の水準なんだと改めて地方と東京の差を感じたという。不動産会社からは3か月音沙汰なし。
4か月目に社員寮として借りたいという会社その後、精密部品を作る地元のメーカーで、があると連絡があった。

お墓は買ったもの

この会社は5年間借りて出ていっ社員寮として使われた小田島さんの実家には常時3人の社員が住んでいたた。この家族は6年ほど住んだ。次は30代のサラリーマン一家が入居、次に入ったのもやはこの一家もまた3年ほど住んで転居していった。り30代のサラリーマン一家、自身の生活環境が変わったことで故郷の家への思いにも変化があらわれた借主のいない空き家の期間を含め15年、結局、実家は貸家として使われた。その間小田島さんの生活も変わった。そうするとだんだん故郷から遠ざかるようになりました。
「父の死の2年後、私も結婚しました。唐津は福岡市に近いので、両親のお墓は父の実家のある福岡市にありました。お墓参りのあとには、叔父さんの家に立ち寄って実家の様子を見ていました。実家の近くに住んでいる父の弟、でも次第にその回数が減っていきましたやがて2年に1回とだんだんと帰郷の回数は減っ1年に2回戻っていたのが、1回になり、冒頭の話にあった庭の木が切られたのは、そんなころのことだったという。ていく。

亡き両親との思い出のつまった家を大事に使ってくれないことに憤りを覚え、ときおり叔父から聞く何気ない入居者の評判にも心が騒ぐ故郷で自分たちの評判が悪くなるのではたまらない」。そんな思いが年を家を貸したことで、次第に実家を貸し続けることに心の負担が大きくなっていった。
経るにつれ募り、「不動産会社には、気がつくたびにきちんと管理してくれるよう何度も申し入れたのですが、あまり熱心には対応してくれませんでした。
不動産会社にとっては、貸主である私たちも借主で家賃を滞納するような人はいなかったので、ある入居者も同じ客ですし、とくに目くじら立てるようなことではなかったのかもしれません」なんといっても小田島さんたちは、遠い東京に住んでいる。
狭いながらも楽しい我が家それに、「遠くに住んでいる貸主よりも、不動産会社としては、やはり地元にいる借主の人のほうを優先するのかなと思いました」入った入居者は途中で追い出せない結局15年も貸家にしたままに貸家に出すのをやめようかとは考えなかったのか。15年の間、入居者が退去したときに、小田島さんに尋ねた。兄も私も自分の家のことや仕事で忙しかったもの「実は、そんなふうに考えてもいたのですが、

ですから、不動産会社には何も言っていなかったのです。それで2番目の家族が出ていったとしばらく放っておいたら不動産会社から次の入居者が決まったという連絡があって。

きにも不動産会社の話では、すでに賃貸の契約書、といってもいつも同じ文面のものなのですが、契約書にサインももらっているという話でした」そこまで話が進んでしまっているのでは、もう貸すのはやめましたいまさらとも言えない。
それに入居者は30代の会社員で、転勤でこちらにいる間の住まいということだったので小田島さんは了承した「結局、3番目の入居者は3年住んで退去したのですが、途中で出ていってもらうことも考えました。ところが入居者は法律でも保護されていて、出ていってもらうことはとても難しいということを友人から聞きました。